世界恐慌とは~株価暴落の歴史からわかること~

株価暴落

2024年8月5日の東京株式市場で日経平均株価が暴落しました。終値は3万1458円で、下げ幅は4451円(12.4%)と過去最大でした。この約3週間の下げ幅は1万円を超え、下落率は約25%に上りました。

株価が大きく下がると、株を持っている会社や個人の資産が減ることになります。下落傾向が長く続くと、会社は投資を減らしたり、個人は消費を減らしたりします。その結果、景気は悪くなります。「景気の気は気分の気」という言葉がありますが、株価の下落は人々の気分を萎縮させ、財布のひもを固くするというわけです。

過去に株価が暴落したことは何度もあります。その中には、世界的大不況の引き金になったり、日本経済の長期停滞の入り口になったりしたことがあります。過去に暴落は何度もあるが、例えば2008年のリーマンショックは、証券大手のリーマン・ブラザーズの破綻がきっかけだった。だが、明確なきっかけのない暴落もある。その中で有名なのは、前出の1987年のブラックマンデーと、実は1929年の大暴落だ。また、短期間で回復し、大きな傷跡を残さなかった暴落もあります。

世界恐慌とは 

世界恐慌のきっかけは、1929年10月24日に起きた株価の大暴落です。ウォール街にあったニューヨーク証券取引市場で、株価が一斉に下落しました。後に、10月24日は「暗黒の木曜日」と呼ばれるようになりました。

株価が急落した理由は、投資家たちが経済の先行きを不安に思い、手持ちの株を売り払ったからです。売り一色となった市場では、株式の買い手がつかず株価が急落したのです。

株価の暴落を知った市民は、自分がお金を預けている銀行から預金を引き出そうとしました。株価の暴落がきっかけで銀行が破綻し、自分の預金が返ってこないのではないかと恐れたからです。

預金者の引き出しに対応できなくなった銀行が倒産すると、そこから融資を受けていた企業が資金を集められなくなり、立ち行かなくなってしまいます。すると、企業が経営していた工場も閉鎖されるため、多くの労働者が解雇されてしまいました。

フーバー政権の対応の遅れ

世界恐慌発生時の大統領は共和党のフーバーでした。フーバーは、経済的な混乱は一時的なものであるとして積極的な対応を行いませんでした。その結果、経済的な混乱が拡大してしまったのです。

その後、1931年にフーバー大統領はドイツの債務支払いを1年間猶予するというフーバー・モラトリアムを実施しましたが、タイミングが遅すぎたため、世界恐慌対策としてほとんど効果がありませんでした。

世界恐慌が起きた背景

生産過剰

1920年代のアメリカは、繁栄の絶頂にいました。第一次世界大戦後、アメリカ経済は大量生産・大量消費が本格化し、経済が急速に拡大して空前の好景気を迎えていました。この時代のことを「狂騒の20年代」といいます。自動車や住宅、ラジオ、洗濯機、冷蔵庫などが飛ぶように売れたのです。

しかし、20年代後半になると過剰に生産された商品が余るようになり、企業は投資した資金を回収しにくくなっていました。にもかかわらず、生産力を増やす投資が続いたため、さらに在庫が積みあがっていたのです。

過剰投機

1920年代は、株式投資が過熱した時代でもあります。好景気となったアメリカに集まった資金は、株式に投資されたため、株価は上昇を続けました。生産過剰で企業利益が上がりにくくなっているにもかかわらず、株価だけが上昇を続けたのです。

この状況に気づいた一部の投資家は、利益を確保するため株の売却を始めていました。後に大統領となるジョン・F・ケネディの父であるジョセフ・ケネディは、保有していた株式をすべて売り払い、大損失を免れています。ただ、彼のような例は少数派で、大多数は株高がまだ続くと思っていました。

アメリカの農業不況

1920年代後半にアメリカで物が売れなくなっていた理由の一つとして、農業不況があげられます。第一次世界大戦のころ、食料の需要が増えたことからアメリカを含む世界各国で小麦などの穀物が増産されました。

しかし、ヨーロッパ諸国が自国の農産物を守るために輸入関税を引き上げると、アメリカの農産物が売りにくくなりました。加えて、農産物を作りすぎたせいで価格が下落し、農民の収入が減少します。

農民たちは借金をして土地や機械を購入していたため、農産物価格の下落で大打撃を受け、農地を手放しました。おまけに、1929年の秋が大豊作であったため、いわゆる「豊作貧乏」の状態となり、農民が商品を買う力(購買力)が大きく低下していました。

世界恐慌が与えた影響

アメリカ

過剰投資による生産過剰や農業不況による農民の購買力低下で商品在庫が積みあがっていたアメリカでは、株価の大暴落をきっかけに金融機関の倒産が相次ぎます。その結果、お金を借りられなくなった多くの企業が倒産しました。

失業者は155万人から434万人に急増しましたが、フーバー大統領を含めて多くの人々は、すぐに好景気になると期待していました。その証拠に、ニューヨークの象徴ともいえるエンパイアステートビルは、1930年に着工しています。

失業者が急増したのは1931年に入ってからで、802万人となりました。同年6月にフーバー・モラトリアムが発表されましたが、ほぼ効果がありませんでした。1932年には失業者が1,200万人を超え、翌1933年には1,283万人に達しました。

失業した人々は、都市の公園にバラックを建てて生活します。このバラックは「フーバー村」と呼ばれました。

1932年に実施された大統領選挙では、恐慌からの脱出を掲げるフランクリン・ロースヴェルト(ルーズベルト)が現職のフーバー大統領を圧倒し、政権交代を果たします。

ヨーロッパ

イギリスやフランスといった、海外植民地を多く持つ国は「ブロック経済」で自国の経済を守ろうとしました。これらの国は、他国の商品を自国や植民地から排除して自国の商品に有利になる保護貿易を行います。

世界恐慌が日本に与えた影響

昭和恐慌の発生

金融恐慌後も、日本経済は不安定な状態でした。浜口雄幸内閣は、緊縮財政で政府の財政を立て直し、金解禁を行うことで、貿易を活発に行おうとしました。

※金解禁

金の輸出を自由化し、金本位制に復帰すること。日本円と金が連動するため日本円の価値が上がり、円高になる。

しかし、浜口内閣が金解禁を行ったのは世界恐慌の真っ只中という最悪のタイミングでした。世界各国はブロック経済を導入していたため、日本製品が輸出しにくい状態でした。それに加えて、金解禁を行って日本円と金を連動させたため円高となります。

円高は、輸出に不利で輸入に有利です。そのため、輸出が減少し輸入が増加しました。その結果、日本の金が大量に流出する事態となりました。また、緊縮財政を行っていたため、政府による企業の支援が不十分であり、多くの企業が倒産しました。

この深刻な不況を昭和恐慌といいます。昭和恐慌の解決は、高橋是清蔵相の再登板を待たなければなりませんでした。

世界恐慌に対する各国の対策

ニューディール政策

大統領選挙に勝利した民主党のローズヴェルトは、ニューディール政策を開始します。主な政策内容は以下のとおりです。

・紙幣発行の一本化

・農業調整法による農民の救済

・テネシー川流域開発公社など大規模な公共事業の実施

・ワグナー法による労働者の保護

・社会保障の充実

これまでの自由放任経済からの大きな転換でしたが、失業問題をすぐに解決するには至りませんでした。失業問題は、第二次世界大戦の勃発で軍需産業が盛んになったことにより解決します。

ブロック経済

植民地や独自の経済圏を持つ国々は、自国の経済圏から他の国々を締め出すブロック経済を実施しました。主なブロック経済は以下のとおりです。

・イギリス:スターリング=ブロック(ポンド=ブロック)

・フランス:フラン=ブロック

・アメリカ:ドル=ブロック

植民地を持っている国は、ブロック経済である程度安定しました。しかし、世界全体の貿易量が減ってしまったため、植民地のない国は自国の商品を輸出できず、苦しい経済状態が続きました。

ファシズムの台頭

第一次世界大戦による敗戦で植民地を失ったドイツや、植民地が少ないイタリア、国内経済の発達が不十分だった日本などの国々は、ブロック経済によって締め出され、経済的に苦しんでいました。

これら「(植民地を)持たざる国」では、ファシズムの体制が強まります。

※ファシズム

20世紀に現れた全体主義的・国家主義的独裁の考え方や支配体制のこと。イタリアのファシスト党政権やドイツのナチス政権、日本の軍国主義がファシズムに分類される*11)。

特にドイツでは、ベルサイユ体制の破棄を主張するヒトラー率いる国家(国民)社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が勢力を拡大する原因の一つとなりました。

高橋財政

日本では、浜口雄幸首相が狙撃されて総辞職すると、立憲政友会の犬養内閣が発足しました。犬養内閣の大蔵大臣となったのが高橋是清です。高橋は、金輸出を再禁止して金の流出を食い止める一方、政府が支出を拡大する積極財政に転換します。

高橋は、公共事業を行うための費用や軍事費を増額することで支出を増やし、国内産業の仕事を増やすことで昭和恐慌脱出に成功しました。

世界恐慌(大恐慌)とSDGs

SDGs目標8「働きがいも経済成長も」との関わり

経済的に不安定になると、国内情勢が不穏となるため、政府が国民の目を他のことに向けさせることがあります。深刻な不況となったドイツでは、ナチスがユダヤ人への差別を強化し、国民の支持を集めました。

そういった事態を避けるには、世界恐慌のような事態になっても人々の生活が維持できる社会的な仕組みを構築しなければなりません。同時に、働きがいのある職場をつくることで経済成長も目指す必要があるのです。

まとめ

世界恐慌は、1929年のアメリカでの株価大暴落をきっかけに世界中に広がった経済危機です。過剰生産や投機バブルの崩壊が要因とされ、失業者の増大、企業倒産、金融機関の破綻など深刻な影響をもたらしました。

各国は、ニューディール政策やブロック経済などさまざまな対策を行って世界恐慌からの脱出を目指します。しかし、資金力がなく植民地も持たない「持たざる国」では、国民の不満が高まり、ドイツのナチス政権や日本の軍部独裁につながりました。

世界恐慌は、経済の過熱抑制や国際協調の重要性を認識させ、現代の経済政策に大きな影響を与えた出来事となったのです。